取り出し口の奥に手を突っ込むと、そこには冷たい缶の感触があった。 どうやら商品を吐き出す通路に缶が引っかかっていたらしい。 それを無理やり引っ張り出し、足早に秋津さんの元へと戻る。 「どうしたの? なんか浮かない顔してるよ?」 少しだけぬるくなった缶を受け取りながら、相手が不思議そうに訊いてくる。 「……。いえ、何でもありません」 「そう? じゃ、いっただきまーす。……ぷはー!」 秋津さんがあたかも酔っ払いのごとく清涼飲料水を一気に飲み干しているのを見つつ、思う。 「……」 先ほど出会ったソウルジャグラーとかいう変質者の事を、やはり報告すべきか否か。 昨日一昨日と続いていた、あの騒動の事を忘れたわけではなかった。 「ん? 私の顔に何か付いてる?」 「……。実は……」 と。 「おーい、ねーちゃんー! 買ってきたぜ―」 入口の扉が開く音と共に、大きなスーパーの袋をそれぞれ手にした光輝と悠が入ってきた。 「……ふぃー、重かったぁ……」 テーブルの上に投げだされた袋から、数個のジャガイモが転がり落ちた。 「おおー、お疲れ様―!」 一瞬でこちらに興味を失った秋津さんが、買い物帰りらしき二人に駆け寄る。 「秋津、頼まれてたカレーの具材とスパイス」 テーブルの下に落ちた食材を拾い集めながら、どこか疲れたように告げる悠。 「うんうん、ご苦労様―。んじゃ、私はこれもらって帰るからー」 「……おい、ねーちゃん」 「その前に、お金」 「……はーい」 しぶしぶといった様子で自身の財布から数枚の紙幣を取り出し、二人に渡す。 ……。 「……まあ、いいか」 先ほどの話を改めて伝えるのがどこか面倒になり、誰にも聞かれないように小さくため息をついた。 あの自称魔人とかいう不審者の件は、秋津さんではなく紫苑の方に伝えれば――。 「……あれ」 そこでふと、紫苑の姿が見えない事に気付いた。いつもならその辺で不機嫌そうに腕を組んでいるはずなのに。 そして姿が見えないのは、葵も同じである事にも。 確か……ソウルジャグラーを探している、とか言っていたような気がしなくもない。 まさか連日、あの不審者と遭遇する事に躍起になっているのだろうか。 「……。どうせ見つけられないだろうし、大丈夫か」 結局その日中に二人の姿を見かける事は無かった。 ――その翌日の放課後。 「よし! 今日こそ見つけるわよ! 目指すは世界を統べる力!」 いつもにように安眠を貪(むさぼ)っていた白斗は、ホームルームが終了した途端クラス中に響いたそんな声で叩き起こされた。 『……いい加減そろそろ諦めろ……』 隣ではいつも通り浮遊霊が頭を抱えていたが、葵にいつも通り無視されていた。 そしてそんな葵の隣には、意外な人物が。 「アンタは駅方面を調べてきて。あたしは学校から寄宿舎までの道を探すから」 「サーイエッサー!」 軍隊よろしく、葵へと敬礼をする山寺。 「よろしい、では散!」 それから二人とも同時にどこかへと駆けていき、片方の背後をクレアが追う。 「……」 いつの間にあんな軍隊ごっこをするほど意気投合していたのだろうか。 やはり眠くてよく回らない頭のまま、習慣でメールの受信を確認する。 いつもなら放課後には秋津さんからの草むしりメールが入っているはずだった。 憂鬱だが休暇は昨日で終わってしまい、今日からはまたいつものように―― 「……?」 新着メール、無し。 何度も新着メールの更新をしてみるが、そこには変わらず『新着メールはありません』の文字が躍っていた。 つまり本日これからは再び草むしりから解放され、好きに使える時間だという事か。 「……平和だなぁ」 今日こそ早く帰ってベッドで眠ろう。そう決心して、勉強道具は一つも入っていないのに重めのカバンを手に取った。 ――同時刻。 「よーお前さんたち特に津堂。今日暇か?」 荷物をまとめて帰ろうとしていた悠の背後から、そんな声が飛んできた。 振り返ると、上機嫌そうに一枚のチラシを指で弾く時雨。 「駅前に新しくケーキ屋がオープンしてよ。んで、そこが開店セールをやるらしーんだわ。良かったらお前さんたちも行かねーか?」 「……今日は」 店長に頼まれた買い物があるから無理、と言いかけ、とっさにメールを確認する。新着メール無し。 「……?」 いつもなら秋津からの業務命令、もしくはお使い、どちらにせよ買い物の話が既にメールで届いている頃合いなのに。 「あー、悠さんってば職業病? ま、最近はほぼ毎日ねーちゃんのお使いだったから仕方ないよなぁ」 自身の脇で実に軽そうな鞄を抱え直した彼が苦笑いした。 「……」 「って事で、俺も悠も今日は大丈夫だ。行こうぜそのケーキ屋」 まだ何も言わないうちに、勝手に話を進められてしまう。 「え、ちょっと……」 「あれ、お前ってば今日何か用事あったのかよ?」 「……別に無いけど」 「じゃ、大丈夫だな。早速行こうぜ時雨! それで店の場所はどこなんだ?」 「まだオレも実際には行った事ねーんだけどよ、チラシに書いてある場所からすると……」 一枚のチラシを前に騒ぎ始めた二人を見つめ、悠は諦めて息を吐いた。 「……。分かった、私も付いていく」 教室を出て、廊下を歩きながら時雨がふと思い出したようにこちらを向いた。 「つーか今さらだけどお前さんたち、バイトはいいのかよ? いっつもそれで忙しくてひいこら言ってなかったか?」 「今日は店長からの連絡が何も来てないから大丈夫。多分休みでいいんだと思う」 光輝の言う通り、毎日お使いを言い渡されるのに慣れ、それが当たり前だと感じてしまっているだけ。たまにはこんな日もある。 そう、思う事にした。 今日も通行人でごった返している大通り。 立地の問題だろうか、寄宿舎近くの商店街は寂れているのにこちらはいつでも人の通りが途切れる事は無さそうだった。 ここもいつかは再開発の波に呑まれてしまうのだろう、などと思いつつ、通行人の間をすり抜けて目的地を目指す。 「……」 今日はどこへも寄り道をせずに、真っ直ぐ帰るつもりだった。 下手に協会に顔を出すと、秋津さんに草むしりを言い渡されてしまうかもしれない。 と、数メートル先の曲がり角にとある人物の姿が見えてきた。 何かを考え込むような仕草をしつつ、珍しく押し黙っているその人物は。 「葵?」 彼女の周囲にいつもいるはずのクレアの姿は何故か見えず、葵が単独で黙りこくっているという状況はかなり物珍しいものだった。 確か、最近彼女はソウルジャグラーを探しているとかどうとか言ってはいなかっただろうか。結局見つけられたのだろうか。 そんな事を考え込みつつ、やはり口を開かないままの彼女に近づいていった。 「……。あ、ちょうどいいところに」 こちらから声をかけるまでも無く、葵はすぐに気付いた。 「ねぇ、ちょっと訊きたい事があるの」 何故かテンションが低い彼女は疲れたように息を吐き、こちらに詰め寄る。 「……」 そこでやっと合点が行った。 数日前から探している、あのソウルジャグラーとかいう自称魔人を未だに見つけられないから落ち込んでいるのか。 「ソウルジャグラーの件なら、自分で探してくれ」 彼女に情報を教える気は毛頭無かったので、そう告げる。 が。 「え? なにそれ」 「……?」 もしや、毎日毎日いくら街中を走り回っても見つからないのでついに諦めてしまったのだろうか。 そんな事を思い、近くにいる浮遊霊にも話を聞いてみようと頭上を見上げるが、その姿はどこにも見当たらない。 「……。ところで、さっきからクレアがいないようだけども――」 時雨が持ってきたチラシに記載されていたケーキ屋というのは、持ち帰りも可能かつバイキング形式がメイン、というものだった。 そんな店が開店セール中、ともなれば必然的に大勢の客が列を成していた。 「うわぉ……これ、何時間待ち?」 駅ビルの中にて、数十人ほどが並んだ列に加わりつつも光輝は小さくつぶやいた。 「っかしーな、仕入れといた事前情報からするとこんなに客来るなんて思わなかったぜ……」 困ったように頭をガシガシかいている時雨を眺めていると、列の前の方から悠が駆けてくる。 「今見てきた。店内が広い分回転率もいいみたい。多分、どんなに長くても三十分も待てば入れるはずだとは思うけど」 そう言っている間にも列がどんどん前へと進んでいく。 ……。 「ところで光輝よー、なんか用事とかねーのかよ? 学校に忘れ物したとか、やっぱりバイト入ってたとか」 「んー、俺は特に無いなぁ……どして?」 と、相手は笑顔で親指を立てたポーズをとった。 「お前さんをこの列から追い出して津堂と二人でデート、と」 「あー、やっぱそれが目的?」 「私、用事を思い出したかもしれない」 ため息をつき列を抜け出す素振りを見せると、時雨が慌てたように話題を変えた。 「そっ、そう言えば! ちょうどこの辺りだったな、一昨日お前さんを見かけたのは!」 「……そう」 それは私ではなく偽物だけど、と心の中だけでつぶやいて。 「……。時雨、もう一度正確に教えて」 ふと相手の発言の中に感じた、小さな違和感。 「本当に、私を見かけたの? 人通りの多いこの駅ビル内で?」 「は? 何言ってんだ津堂。お前さんの話じゃねーか」 「あー、悠さんってばたまに夢遊病を発症する事があって……」 光輝があまり嬉しくないフォローをしてくれていたが、今はそんな事よりも。 「あ、ああ。確かにお前さんがいたぜ。いくら話しかけてもちっとも反応してくれねーから、スカートとかめくってみたり。確か中身の色は――」 「……秋津……!」 時雨が何かをつぶやいているのも気に止めないまま、携帯電話を取り出し、発信履歴を呼び出す。が、いくら待っても繋がらないまま。 「時雨、悪いけどケーキの件はキャンセルさせて」 「……は?」 「光輝。来て。緊急」 「え、ちょっと、おい?」 彼の制服の袖を引っ張るようにしながら駆け出す。 「ちょ、どこ行くんだよお前さんたち!? ケーキは? 二人っきりのデートは!?」 背後から時雨の声が追いかけてきたが、既に悠の耳には入っていなかった。 「一体どういう事だよ?」 「……あなたも覚えているはず」 自身の背後を追走する光輝の姿を確認し、走るスピードをさらに速める。 「人目がある場所での、超常現象の自然発生なんて基本的にあり得ない」 自分たちにとっては最早常識である事を、心を落ち着かせるように努めて話す。 「だったらこの世界は、既にもっと一般に広く知れ渡っているはずだから」 「……ああ。でも、それがどうしたんだよ?」 「時雨は人通りの多い駅ビルの中心部で超常現象……人形、つまり私の偽物を見かけたと言っていた」 「……。……。……あ」 何故自分は気付かなかったのか。 記憶を辿ると、一昨日の時雨からの電話の中で彼女は確かにそう言っていたはずだった。 「ここから分かる結論は……人形は自然発生じゃない、という事」 「自然発生じゃない、って事は……?」 「残る可能性は、人為的な発生。つまり、何かしらの異能で生み出されたもの」 それから悠は、自身に言い聞かせるようにつぶやいた。 「あの一連の事件は……まだ終わっていない」 葵の姿を模倣した『人形』は困惑していた。 至近距離で、標的が完全に油断していた時に急所を狙ったはずだった。 だが次の瞬間、標的は自身の視界から消え失せていた。 例え反射速度で気付く事が出来ても、並みの身体速度ではそれに追いつけないはずなのに。 しかも周囲のどこにもいないという事は、普通の手段で避けたのではないのだろう。 異能による瞬間移動か、もしくはテレポートか。 「……」 ならば。 「はっ、はっ……くそ、やっぱあれの続きか……!」 大通りから外れた一本の脇道。白斗はそこを全力で走っていた。 クレアの不在を問いただした瞬間、葵は表情も変えずにこちらの左胸を狙ってきていた。 どう考えても殺す気での一突き。 葵は割と日常的によく分からない行動を取る事があるが、そんな彼女でもいくらなんでも相手を死に追いやるような事まではしないはずだった。 また確か自身の記憶が確かならば、彼女の爪もナイフのように鋭利な形状にはなっていないはずだった。 「あと九分、いや、あと九分と十秒、か……」 近くのビルに寄りかかったまま自身の腕時計を確認し、そうつぶやく。 秋津さんには既に何度も電話をかけていた。が、いくら試しても一向に相手が電話を取る気配は無い。 「……」 これは本気できな臭くなってきたな、と思いつつ、自身が通ってきた道を振り返る。 相手はまだこちらの位置を把握してはいないようだが、ゆっくりしているといつ見つかるか分からない。 本日は絶対に向かわないと心に決めていた協会への逃避行を再開する。 と。 制服のポケットから携帯電話の着信音が響いていた。 こんな時に誰だと思いつつ、着信画面に目を落とす。津堂悠。 『兄さん、今どこ』 自身の現在位置を伝える。ついでに割と今死にそうだという事も付け加えておいた。 『私と光輝がすぐ行くから、あと十一、二分だけ保たせて』 向こうもこちらの状況を察したのか特に説明も求めず、それだけ言うと通話はすぐに切れてしまった。 「……」 他人からすると自分と悠の兄妹は、二人とも同じように淡泊なように映るらしい。 だが白斗自身としては、悠の方が自分よりもよほど冷淡だと思っていた。 と、待ち受けに戻った画面に何かが反射した。 「……」 携帯電話に目を落としている自身の背後に、足音を殺して近寄ってくる光輝の姿。 「……自分と光輝が十数分で行くから待ってて、か」 先ほどの電話の中の悠の言葉を思い返し、口の中だけでつぶやくと、自身のカバンを開けとあるものを取り出した。 「……なんだこれは……」 沈みかけるオレンジ色の太陽が照らす、雑居ビルの屋上にて。 紫苑は自身の前に現れた、三人の自分自身(・・・・・・・)を殴りつけながら舌打ちしていた。 数日前、悠と光輝が二人目の人形を撃破した時から何か引っかかるものを感じ、それからずっと独自に街中を調べていたが―― 「秋津……帰ったら覚悟しておけ……!」 顔を歪ませ、この場にいない人物への怨嗟の声を吐き出す。 数分前、悠から電話があった。今回のこの騒動は人為的なものではないのか、という彼女の推理。 秋津には電話が通じないようなので、今の話を白斗と葵にも伝えておくように言ったところ、それと同時に今回の襲撃が。 そんな事を思い返していると、一人が放った打撃が顔面向けて襲いかかってきた。 とっさに右腕でガードすると、何かが砕ける音と共に鈍い痛みが走る。 そのままもう片腕で戦いを続行し、折れた右腕が不死能力で修復されるのを待つが。 「……ちっ、流石に分が悪いか」 傷ついた箇所の修復が、前回に比べて明らかに遅かった。 「あと三十分はこのまま、か……」 沈みかける茜色の夕陽を忌々しげに睨(ね)めつける。 それは自身の不死能力、『デモンリバース』の唯一とも言える弱点だった。 通常身体が傷つくと、周囲の暗闇が集まり破損個所を修復する。 が、それは裏を返せば暗闇が存在しない場所では修復が出来ない、良くて修復スピードが遅くなる、というものだった。 以前葵に面白半分で吸血鬼、などと呼ばれた事もあながち間違ってはいなかった。 ただ、自分の場合は直射日光を浴びたからといって身体が溶けたりはしなかったが。 「……ちっ」 舌打ちし、再び自身の集団の中に飛び込んだ。 秋津さんは高校時代、剣道部に在籍していたらしい。 県大会まで上り詰めた事もあるとか何度も聞かされた記憶があるが、残念ながら大して覚えていなかった。 そしてその剣道の技術を、稀に訓練と称して自身に叩きこんでくる事があった。 ――が。 相手が電撃を載せた拳で殴りかかるのと、白斗が振り返りながら木刀を盾のように構えたのはほぼ同時だった。 「異能……!?」 ギチギチとつば競り合いになる。が、一瞬で競り負け木刀は文字通り木端微塵に。 「……くっ」 相手の押し返す力の方向を横方向に受け流し、その反動で無理やり側面へと脱出する。 一瞬前まで自身がいた場所に立っていた看板は、最大出力の電撃の一撃を受けて見事に大破していた。 「……いくら熱心に叩きこまれても、付け焼刃は実戦じゃ使えませんって……」 ここにいない人物へと向けてつぶやきながら、光輝の姿をした人形に背を向けて路地を走り出した。 先ほどの葵の姿による不意打ちから、七分が経過しようとしていた。 ふと背後を振り返ると、ちょうど看板の残骸から手を引き抜いた相手がこちらに向けて猛然と走り出したところだった。 「……」 護身用にと秋津さんから押し付けられた木刀を持とうとして、今しがた壊されてしまった事に気付いた。 まさか一撃で壊れるのはともかく、簡単に押し切られてしまうとは思っていなかった。多分、腕力が足りないのだろう。 「……。今度鍛えておくか」 もしこの状況から逃げ切れたらならば、だが。 「もしくは来世に期待、と」 自身に言い聞かせるように軽口を叩きつつ、走るスピードをさらに速める。 「もうちょっと腕力……力が欲しい」 瞬間、辺りに霧が立ち込め、地の底から響くような音を立てて大地が胎動する。 ……。 「……あ」 そして現れたのは。 「呼んだだろう?」 「……呼んでない」 「嘘をつくでない。我が輩の耳にははっきりと届いたぞ。我が輩と契約したいと願う君の真の声が」 「……昨日とは場所が違くないか」 「我が輩の出張サービスだ」 ……。 「……。悪い、俺が悪かった。さっきのはキャンセル、無しにしてくれ」 追ってくる人形から走って逃げながら、白斗の頭は背後の追跡者よりも自分の財布の中身の方を真剣に考え始めていた。 自身の隣を並走する――腕を組んで空中に浮かんだまま平行移動する事を「並走」と言うならばだが――ソウルジャグラーは、背後の危機など大して気にしていないといった風に髪を撫でつけている。 「キャンセル? そんな現世のシステムなど我が輩の知った事ではないのだよ。さぁ少年、素直になって我が輩と契約を――」 「キャンセル料出してやるから帰ってくれ」 「金の問題ではない。我が輩は純粋に君を助けようとしているのだ」 「だったら帰りの電車賃も出す。タクシー代も付けるから帰ってくれ」 「金の問題ではないと言っておろうが。それ以前に我が輩が乗り物などに乗ると思うなよ。そして我が輩は君のためを思って……」 「五千円までなら出してやる」 「……いやだから金の問題ではなくてだな、」 「かなり痛いけど一万円でどうだ」 「……少年、話を聞かんか。だから金ではなく……」 「くそ、じゃあ何円だ。言い値を出すから帰ってくれないか」 「……君はどれだけ我が輩が嫌いなのだ」 ちょっと目に見えて落ち込むソウルジャグラー。 「円建てが不服なら何で払えばいいんだ。ドルかドルなのかユーロなのかそれともジンバブエドルか」 「……ぐすっ」 相手が涙目になりつつあったので、そろそろフザけるのもやめる事にした。 「とにかく、俺はそんな力は必要としていない。だから帰ってくれ」 「……この状況で言うのならば、君も何かしら力を持っているのだろう?」 魔人が、背後の追跡者に目をやりながら言う。 「ソウルという高尚な力には及びもしないだろうが、何かしらの異能を」 「……よく知ってるんだな」 もしや協会についても知っているのだろうか、と思いつつ腕時計を確認する。 「……後一分強、だな」 「?」 相手の疑問を無視し、自分に言い聞かせるようにつぶやく。 「秋津さん……俺の上司が言うには、俺の異能は千人に一人の確率らしい」 「ほう。それはさぞや珍しい力なのだろうな。もちろんソウルには遠く及ばないだろうが」 ソウルジャグラーが感心するような声を出した。 それに気付き、白斗はどこかうっすらとした笑いを口元に浮かべた。 「ああ、ある意味でレアなんだろうな」 「ここまで役に立たないものが発現するのは」 ……。 「は?」 「俺の周囲の草木の生育を早める。しかも俺の意思は関係なく勝手に常時発動するタイプの異能」 後ろを振り返りつつ、隣の魔人へと手短に説明をする。 「一応俺の意思において一定の範囲内で強めたり弱めたり出来るけれども、完全に止める事はできない」 背後の追跡者との距離は変わらないが、相手も一向に疲労する気配が無い。 相手は人間ではないのだから当たり前なのだろうが、そうなるとこちらが先にバテてしまいそうだった。 「いつかコントロールできるようにと、俺は上司の命令で草むしりをほぼ毎日させられている。上司いわく、修行の一環らしい」 そこまで言ったところで自身の肺にガタが来ているのに気づいた。 話しながら疾走している以上、自明の理だった。 「な、ならば草木で相手を縛るなどという使い方は出来んのか?」 「……まさか。全ての異能が戦闘に向いているわけじゃない」 相手の提案を鼻で笑う。 「これは最大出力で、種を植えてから一時間で芽が出る程度。ただそれだけの、役に立たない異能。どうでもいいから名前なんか付けていない」 「……。それで? それでどうやって戦うのだ?」 「戦う方法は……無い」 そこで大きく息を吐き出し、足が止まる。 時計を見ると、悠たちが到着するまでまだ数分の猶予があった。 足が動かない以上、おそらくこのまま走って逃げる事はもう出来ないのだろう。 追跡者は触れられると確信したのか、片手に帯電を開始した。 「だから俺の上司いわく、俺は最弱の――」 そこまで言うと、焦ったのかソウルジャグラーが叫んだ。 「おい少年、このままだと死ぬぞ! すぐに我が輩と契約するのだ!」 「……いらないって」 背後を向くと、相手との距離は十数メートルにまで迫ってきていた。 目を閉じ、呼吸を整える。 「俺の上司いわく、俺は……『最弱の切り札(ラストカード)』らしい」 「……?」 「不死の紫苑が最強だとしたら、俺は最弱。……見せてやるよ。俺のクオリア」 ずっと疑問符を頭に浮かべている相手に、今は説明している余裕が無かった。 「いいか、合図をしたら俺に付いてきてくれ」 「少年、一体何を――」 相手の言葉を無視し、カウントダウンを開始する。 「……3」 人形との距離は、後数メートルほどにまで縮んでいた。 「2」 後一メートル。 「1」 そして、相手の手が白斗の身体に触れる瞬間。 「よし、逃げよう」 文字通りの眼前で人形がピクリとも動かなくなったのを確認すると、全力疾走し終えた身体を激励し、なんとか再び走り出す。 「……は?」 「急げ、猶予は20秒だ!」 「少年、一体何をしたのだ?」 周囲の全て、大通りの方を通る車の気配、空を飛ぶ鳥の姿、果てはそれらが立てる音さえもが止まっている事に気付いたのか、魔人が声を上げた。 「俺のクオリア、『アクシスクロッカー』は、時間を任意の期間止める能力。しかも止める時間に制限は無い」 息を整えて走りながら、協会の建物向けてひた走る。 「ただし再使用(リロード)には今までに使用した時間の累積分かかる。つまり、使えば使うほど再使用(リロード)までの時間が延びていく」 それは、この超能力(クオリア)唯一の代償。 「しかも俺にはこれ以外に特段の戦闘能力が無い。だから……最弱の切り札(ラストカード)」 いつもの癖で動かない腕時計に目をやってから、体感での経過時間を確認する。あと十秒がいいところだろう。 「今は俺とアンタ以外、全ての時間を止めている。あと少ししか保たないだろうから、あまり騒がないでくれ」 「……まさかソウル以外にこのような力があるとは……。少年、君は一体どこでこの力を手に入れたのだ……?」 魔人が呆然とした様子でつぶやいた。 「前にもらった。アンタみたいな奴から」 その相手は今どこで何をしているのかは知らないが、ただただヘラヘラしていた事だけは記憶している。 小道の角を曲がると、ちょうどそこで指定した二十秒が過ぎ、白斗とソウルジャグラー以外の全てのものが再び動き出した。 「次に使えるのは十五分十秒プラス二十秒後、と……」 つぶやきながら遠くに目をやると、そこに光輝と悠の姿が見えた。 携帯電話を取り出し悠へと電話をかけると、遠くの彼女が制服のポケットを探り始めた。 もう、安全なようだった。 悠の携帯電話を光輝が受け取り、お互いの姿が見えているにも関わらず通話ボタンを押す。 『よぉ兄貴。生きてるか?』 「なんとか。ギリギリで」 『ところでさ、隣の変なおっさんは何なんだ?』 「葵が探しているソウルジャグラー。実際は、ただの空飛ぶ不審者だけど」 そのまま二人の方へと歩き出そうとして。 「……」 ふと思い当たることがあり、足を止めて頭上を見上げる。 「一つだけいいか」 「む? 何だね」 ソウルジャグラーがちょび髭をさすりながら、よく分からないポーズを決めてみせる。 「俺にはどうでもいい事だけど、どうでもいい事だけど、重要な事だから二回言ったけど……アンタと契約した者、つまり『ソウル』を手にした者は世界をも手に入れる、と聞いた。……本当なのか」 それが本当だとしたら、それはもう嬉々としてソウルジャグラーにホイホイされる人物が身の回りに何名もいるので、放っておくわけにはいかなかった。 「あぁ、あれなら宣伝文句の一種でぶっちゃけ大嘘だがそれがどうかしたのかね?」 「……アンタもう黙ってろ」 全力疾走した時以上の疲労を感じ、限りなく脱力してつぶやく。 「はっはっは、我が輩は魔界の……」 「……帰れ!」 シッシッと砂を蹴りあげると、ソウルジャグラーの姿は虚空へと消えていった。 「……」 とりあえず、しばらくは決して『力が欲しい』という言葉は使わないようにしよう。そう思った。