悠へと向けて伸ばされた腕は、彼女の眼前に降り立ったまた別の人物の手の平によって止められていた。 「……秋津の馬鹿からの連絡で、大体の状況は把握した」 その人物はそう言うなり、自身が電流で焼け焦げるのも構わずにそのまま人形の手首を掴んだ。 そのまま人形の身体を引き寄せ、もう片方の手で相手の顔を殴り抜けようとする。 ――が、当たるかどうかの寸前に、二人の偽物は両方とも同時に灰色の粒子になって消えていった。 「……退いた、か」 紫苑は舌打ちしながら、背後の悠を振り返った。 「怪我は無いか、などと安直な事を言う気分ではないんでな。要件だけ言う。……白斗は見つけたか?」 「……」 無言で首を横に振る。 「……全く、余計な用事を増やしてくれる」 再び舌打ちしつつ適当な方向へと歩き出そうとしている彼に、ふと悠は問いかけた。 「待って。……あなたは本物?」 言ってしまってから、自分はなんて馬鹿な事を聞いているのだと後悔した。 本物にせよ偽物にせよ、わざわざ自身を後者だと言うわけが無いだろう、と。 立て続けに偽物が現れて、どこか疑心暗鬼になっているのかもしれなかった。 「さぁな」 大して興味も無さげにつぶやくと、ほぼ太陽が落ちかけた空を見上げた。 一瞬だけ紫苑と悠を照らした橙色の太陽光が闇に呑まれると同時、電撃で焼け焦げた紫苑の身体はゆっくりと治癒していく。 「行くぞ。こう暗いとどこから闇討ちが飛んでくるか分からん。俺と来い」 それだけ告げると、裏路地を真っ直ぐに進んでいく。 「……」 他にどうしようもなく、悠もその後に続く。 ふとコツン、と履いている革靴に何かが当たった。 しゃがみ込み街灯の光に目を凝らすと、足元に二人分の携帯電話が落ちていた。 先ほど盗まれた自身の物と、兄の物が。 ブン! と身を切るような風圧が白斗の顔目がけて吹き付けた。 それが人形の使用した異能によるものではなく、真横から突っ込んできた何者かが起こしたものだという事に気付いたのは、それから数秒後の事だった。 「大丈夫か、白斗。……いまいち状況が飲み込めないが、お前がマズいという事だけは理解した」 ソバットで突っ込み人形の内の一体を蹴り飛ばした葵、いやクレアが尻もちをついた白斗の眼前に立っていた。 そしてその背後には、半透明の霊体になってふよふよと浮遊した状態の葵の姿が。 「助かった……けど、今回ばかりは退いた方がいい。光輝か紫苑じゃないと、こいつらには勝てない」 いくらクレアの身体能力が高くとも、支部の切り札の紫苑ほどでは無いはずだった。 「あと少しだけ持たせれば、俺のクオリアで逃げられるから――」 「実はな、策があるんだ」 クレアがどこか諦めたような、それでいて面白そうな自嘲めいた笑みを浮かべた。 「しかも私にではなく、葵にな」 「……?」 白斗の疑問を知ってか知らずか、彼女は目を閉じた。 一瞬後、目を開いた相手は鼻息荒く邪(よこしま)な笑みを浮かべた。 気配で分かる。クレアから、葵に人格が入れ替わったのだ。 「さ、やるわよ!」 「ちょ、ちょっと待て! いくら何でも無茶だ!」 確かにある程度の身体能力があるクレアのままでこの場に出てくるのは分かる。 だがしかし、葵自身には何の力も無い。 彼女はただの口やかましいだけの、実際は無力な少女で―― そんなこちらの困惑を全て無視するかのように、葵はきゅぴーん! とでも効果音が付きそうな人差し指を天高く掲げたポーズをとると、 「見なさい、あたしのクオリア! 『ソウル』ッ!!」 「……は?」 ふと背後に気配がして振り向くと、いつからいたのか、そこには満足げに髭を撫でるソウルジャグラーの姿が。 「こいつ……!」 葵の視線はある一点へと注がれていた。 工事現場の中央に存在する、昨日の大雨で溜まった大きな水溜まりへと。 そして。 「来なさい、リバイアちゃんっ!!」 右手を天高く掲げた葵。その目の前の水溜りの中から轟音そして震動と共に『何か』が湧き上がってくる。 青白い皮膚に、二連の角。 全身を覆う鎧にも似た鱗。 あたかも蛇のような十数メートルもの体長。 それは小型のビルほどもある異形の生物。 ……いや。 龍(・)だ。 ――その一日ほど前。 夕刻、商店街最奥の空き地で「力が欲しい」と叫んだ葵の目の前に濃い霧と共に現れたのは。 「よくぞたどり着いた。君で二人目だ」 数日前の早朝、葵に『魔人』の噂を吹き込んだ人物本人。 どこか曇りがちになってきた空の下、目を輝かせながら葵が相手に詰め寄った。 「まさか、アンタ自身がその魔人ってヤツなの?」 「いかにも。我が輩こそが魔人『ソウルジャグラー』。我が輩を見事探しだした君に力を授けよう」 胡散臭いちょび髭を撫でながら、満足げにそう告げてくる。 『……葵、気をつけろ。この手の輩は宗教勧誘だと相場が決まっている』 元より相手に聞こえていないのは承知の上で、クレアが小声で耳打ちする。 「何よ、力をくれるのは嘘で本当は新手の宗教勧誘ですって? 悪いけどあたしは神様とか信じてないの」 「いや、我が輩は宗教勧誘などではなく、」 「でもあたしを神として崇めるか、もしくは入信したら毎日十万円くらいもらえる宗教だったら入ってあげてもいいかも」 「……むしろ我が輩は魔人なので天界の神々とは敵対する存在であってだな、」 「自分で言っててなんだけど、結構アリねそれ。決めた! 入ってあげるからとっととお金を寄こしなさい!」 ビシィ! と眼前の自称魔人へと目がけて指を突き付ける。 「ええい、我が輩の話を聞かんか! ……最近の人間は他人の話を聞かない者が多くて困る」 「最近の? それにさっきもあたしで二人目だって言ってたけど、もしかしてもう誰かに力を渡したってわけ?」 先を越された、と歯ぎしりする葵だったが、 「先ほどまで共にいたのだが、実に聞き分けの無い少年でね。この高尚な力を渡すと言っているのに、一向に受け取ろうとはしなかったのだよ」 「なーんだ。心配して損した。っていうかそれどんな奴よ。世界がいらないなんて言うアホの子は。顔を見てみたいものだわ」 ひとしきりぶつくさ言ってから、 「まあいいわ! とにかくその『世界が手に入る力』をとっとと寄こしなさい! 話はそれからよ」 「……。ほう。君は聡明な少女だ。我が輩の力をこうも簡単に受け入れようとするとは」 魔人が自身の髭を撫で付けながら、どこか驚いたような声を出した。 『……お前、いくら何でも無警戒過ぎはしないか? 百歩譲ってこいつが本物の魔人だったとしても、代償に何を要求されるか分からないんだぞ?』 背後の幽霊が呆れたようにつぶやいた。 「……。それもそうね。ねぇそこのアンタ、その力の代わりに何か要求したりはしないでしょうね」 ここに来てようやく相手の胡散臭さを再確認したのか、恐る恐る訊く。 「世界を手に入れる力の代償にお前の魂をいただくぞ、みたいなのは絶対お断りよ。あたしはまだまだやりたい事がいっぱいあるの」 「そんな事はない。我が輩が求めるのは知名度だけだ」 どこか遠くを見つめ、微笑みを浮かべながら魔人がつぶやくように言う。 「将来的に我が輩が人間全てに崇められるようになればそれで構わないのだよ。無償の力を渡すのも、そのための一歩だ」 「ふーん、そう? じゃあお願いするわ」 クレアがつぶやいた『コイツは地道な営業活動でもしているのか』という言葉は、ソウルジャグラーにはもちろん葵にも聞こえずに風に流れて消えた。 ソウルジャグラーが葵に手をかざした瞬間、何かが彼女の頭頂部からつま先まで一気に駆け抜けた感覚があった。 「何よこれ。特に何か変わったようには思えないんだけど」 つぶやきながら自身の両手の平を見比べた葵は、その場でジャンプなどしてみる。 「この高尚な力の名前は『ソウル』。憶えておくといい」 「で? これを使うと何が起こるのよ。どうやって世界が手に入るのよ」 「ソウルとは使用者の魂の波長によってその内容を変える力なのだ。だから一概には言えんのだよ。……どれ、我が輩が見てやろう」 『……』 協会の異能と似たようなものか、とクレアが独りごちている間にも、ソウルジャグラーは葵の手を取りしげしげと覗き込む。 「……ふむ、これは面白い」 「なになに? なにが起こるの?」 「これは直接全世界を統べる事が出来るタイプの、とてつもなく強力なソウルだ。全世界は君の意思に従い、すぐさま屈服するだろう」 「……!」 『……おい』 目をよりいっそう輝かせた葵の背後で、クレアはため息をついた。 元々訳の分からない事にあり得ないほどの無駄な情熱を傾ける葵の事だ、そんな力があればすぐさま世界征服に乗り出すんじゃないかとさえ思えた。 ……最も、すぐに紫苑辺りに張り倒されそうな予感もしたが。 「ほれ、試しにそこにいる子犬に対して使用してみたまえ」 と、言いつつ眼前を横切った野良犬を指差した。 「……使った瞬間、あの犬の首が飛んだりしないわよね。あたし、そういうヒドい事はしたくないんだけど。もっと平和的に敬われたいのよ」 「そんな血生臭いもの、我が輩の与える高尚な力であるはずがなかろう」 実に心外だという体で、ソウルジャグラーが唸る。 「で、どうやって使えばいいのよ」 「ソウルとは精神力、君自身の心の強さだ。その強さがソウルの出力に直結する。だからただ、強く願えばいいのだ。相手を支配したい、意のままに服従させたい、とな」 「……。……。……!」 数メートル先の対象へと指先を向けた葵の動きが止まり、数秒後にビクンと震えた。 それと同時に、野良犬は。 ハッハッハッ、と尻尾を振りながら大喜びで葵の元へと駆け寄ってくる。 「……」 葵が無言で片手を差し出すと、そこにポンと前足を載せた。 どこか自慢げに髭を撫でたソウルジャグラーが、仰々しく宣言した。 「そう。人間以外の全ての生物を強制的に従属させる、絶対服従の能力。それが君独自のソウル――」 「ふざけんじゃないわよ!!!」 相手のマントの襟元を掴んでがくがくと揺さぶる。 「動物集めてサーカスやれって言うの!? それはそれでお金になりそうだけど、あたしが求めてるのはこんなのじゃないの!」 「ま、まぁ待て少女よ、我が輩は食べても美味しくないぞ」 「食べないわよ! 人の事を化け物か何かみたいに!」 頭を抱えて絶叫し、その場で繰り返し地団太を踏む。 「っていうか全然世界が手に入らないじゃないの、この詐欺師! 警察呼ぶわよ!」 「さっ、詐欺師? 魔界の住人、闇の眷属たる我が輩を詐欺師呼ばわりだと?」 愕然(がくぜん)とした表情でつぶやくソウルジャグラーの言葉も、今の葵には聞こえていないようであった。 「あーもう信じらんない! 詐欺師に騙されたなんて人生の汚点よ! 返してあたしのバラ色の人生!」 そして葵はしばらく「こんなの死刑よ死刑」「むしろ今から私刑にかけてやろうかしら」などと喚き続けていたが、 「……。アンタ、確か『魔人』……とか言ってたわよね?」 「うむ? 確かにそうだがそれがどうかしたかね?」 「じゃあ……魔界の動物、何か寄こしなさいよ」 ……。 一瞬、辺りに沈黙が流れた。 髭を撫でながら驚きの表情を浮かべたソウルジャグラーは、すぐにそれをニヤリとした笑みに変えた。 「……ほう」 「魔界にも何かいるんでしょ? デス野良犬とかヘル野良猫とか」 「……そんな名前ではないが、確かにそこら中にいるな。下級魔人の我が輩でも問題無く飼い慣らせる魔物がチラホラと」 我が輩でも、の辺りで葵の目がいっそう輝いた。 「じゃあ、そんな感じのお手頃な怪物を寄こしなさい。今回はそれで勘弁してあげる」 『……やっぱりコイツ下級なのか』 数日前に本人から聞いた、魔界を追放された魔人、という話はどうやら本当らしい。 「ふむ、特別サービスだ。良かろう」 事も無げにそう告げ、両手を大きく広げた。 「手頃な魔界の生物を寄こせ、と言うか、少女よ。……ならばコイツ辺りが適任だろう」 曇天の空から周囲一帯に大粒の雨が降り注ぎ始めると同時、虚空からそれ(・・)は現れた。 辺りを切り裂くような雄叫びを撒き散らしながら、現世に顕現する魔界の生物。 その存在だけで周囲の環境すらも変える、水の龍。 体長十数メートルにもなろうかという魔獣が、豪雨の中に存在していた。 「何、よ……これ」 「魔獣リバイアサン、またの名を猛る海皇」 数メートル先さえも見えないほどの豪雨の中、どこからかソウルジャグラーの声が響く。 「身の程を知りたまえよ、人間」 「な、何がよ……」 「寄こせと言われたから、我が輩は差し上げたまでだ。魔界の海で泳いでいる程度の生物を」 氷のような鋭利な冷たさが混じった、魔人の声。 「確かに我が輩は下級であり、魔界を追放された身」 その声だけが、視界を奪われた葵の周囲に響く。 「されど我が輩は『魔人』ソウルジャグラー。誇り高き魔界の住人、闇の眷属なり!」 目の前の魔獣は、二つの瞳でただ葵を見つめていた。 「いくら落ちぶれようとも我が輩、人間が魔界の存在よりも上に立つ事を許可した覚えは無い」 それはまるで、絶対捕食者が無力な獲物を品定めするかのようで。 「……あまり魔人を舐めるなよ、人間如きが」 手にしたシルクハットを被り直した魔人の姿が、葵の正面に浮かび上がる。 豪雨は一層強まり、視界どころか周囲の物音さえもゆっくりと閉ざされていく。 「……」 葵が無言のまま、一歩踏み出した。 『待て葵、ここは私が――』 そうクレアが言いかけたその時。 海皇がその長大な体躯を捻りながら吠え、豪雨をつんざく雄叫びを周囲に轟かせる! 『……あ……』 いつの間にか、無意識のうちに両腕で半透明な自分の身体を抱きしめていた。 それと同時に、ある事を確信した。 冗談や誇張などではなく、目の前の存在は本当にヤバい(・・・・・・)という事を。 元より死んでいる自分自身でさえも感じる、本能的な命の危機。 この魔獣にはどう逆立ちしたって勝てはしない。 もし、もし地に頭をこすりつけてこの場を見逃してもらえるのなら、今すぐにでも―― 『……葵、逃げろ……今回は……本気でシャレにならないぞ……』 仮に今の自分に生身があったなら確実に嘔吐していたであろうと思われる精神状態のさなか、ゆっくりと自身の隣の少女に目を向ける。 だが、彼女は。 「……いいじゃない。上等よ」 この状況下で、笑っていた。 それも自暴自棄や恐怖の裏返しなどではなく、心の底から。 「こいつをさっきのソウルとやらで、従わせればいいんでしょう?」 「……ほう。仮にも魔界の生物を、人間程度の精神力で従属させると言うか、少女よ」 何か珍しいものでも見たかのような面持ちで、ソウルジャグラーが手を打った。 「ええ、言うわ。言ってやるわよ。世界を手に入れるためには、これくらいの障害は付き物なんだから」 笑みを浮かべ、そう言い返す。 『やめろ……今回ばかりは私にも……どうにも出来ないぞ……』 クレアが絞り出した声は、雨の轟音に阻まれて葵の耳に届く事は無かった。 「意固地なものだな。今すぐこの場で許しを請うならば、リバイアサンを魔界に送還してやっても良いのだぞ?」 「そう? じゃあもしあたしがこの怪物を従わせられたなら、アンタ、あたしの使いっパシりになるくらいの覚悟はあるわよね?」 「魔界の生物を従属させるだけでは飽き足らず、魔人をも従えようと言うのか。何と愚かな。……だがもう愛想も尽きた」 ほぅとため息をつき、再度葵に向き直る。 「結論は既に見えている。やってみたまえ。……だが魔界の生物は、先ほどの子犬とは訳が違うぞ」 より一層強まる大豪雨。葵は自分自身が滝の中にいるのではないかと錯覚しかけていた。 「我が輩が与えた力で、見事海皇リバイアサンを従えてみるがいい。……そうでなければ、ただ喰われるだけだ。さぁ生き足掻いて見せよ!」 周囲の音を食らい尽くす豪雨の中、微かに何かが鳴り響いた。 葵の制服のポケットの中から聞こえる、今の空間には場違いな流行りの着信メロディ。 『あ、葵、今どこに――』 「今忙しいから後で!」 電話相手を確認する事もせず、ただそう叫んで通話を切る。 豪雨のただ中に浮かぶ海皇の咆哮と豪雨の音が入り混じったものが、周囲に轟いた。 そして。 牙を剥き、葵めがけて一直線に迫りくる魔獣。 『葵――!』 「……!」 気が付くと葵は、真っ暗な空間内で海皇と相対していた。 上下左右も分からない、どこまでも続く宇宙のような空間。 だが、彼女はこのような場所をよく知っていた。 幽霊のクレアと、実際に声には出さずに対話する時の場に雰囲気が似ている。 つまりここは、誰かの精神世界なのだと。 そしてその誰かとは、もちろん眼前の―― 『我の名はリバイアサン』 海皇が口を開き……否、何一つ動かさずに語りかける。 現実では話せなくとも、精神での対話は可能であるらしかった。 『汝、我を下僕として従属さする事を欲するか? なればこそ我にその力量を示し――』 『……気に入らないのよ』 小難しい言葉で何かを言い出した相手を無視し、葵は先ほどから個人的に気になっているある点を吐き出した。 『さっきからずっと思ってたんだけどリバイアさんリバイアさんって……他人に呼ばせるならともかく、自分でもさん付け呼びなんて自意識過剰もいい加減にしなさいよ!』 『……我の名は元より一単語にして、決して他者に尊称を強制するところでは無く、』 『アンタなんかせいぜいリバイアちゃんがいいところよ! ペットにしてやるから覚悟しなさいリバイアっ!!』 葵の眼前で大きく口を開けたリバイアサンは、差し出された彼女の腕を喰い千切る寸前で、ゆっくりとその顎(あぎと)を閉じた。 全ては一瞬。 『葵……?』 「……。今回はもう帰っていいわよ。また後で呼ぶからちゃんと来なさいよね」 葵にそう呼びかけられた魔獣は、そのままゆっくりと消えていく。自身の意思で魔界に帰還したのだろう。 「ば、馬鹿な……何故、何故人間がここまでソウルを使いこなせるのだ……!?」 そして後に残ったのは、髭を撫でる事も忘れてただ狼狽するソウルジャグラー。 「ましてや、リバイアサンに競り勝つだけの精神力(キャパシティ)を備えた人間の存在など……!」 いつしか雨も上がり、綺麗な夕焼け空が頭上に広がっていた。 向き合う女子高生とちょび髭の不審者が珍しいのか、今まで雨宿りしていたらしき帰宅途中のサラリーマンたちが好奇の視線を投げかけつつ足早に去っていく。 「こちとら毎日24時間365日、常日頃から幽霊と同居してんのよ。アンタには見えないでしょうけど。キャパなんて日常的に鍛えられてるわ」 「あ、あり得ない……仮にも魔界の生物、リバイアサンが……」 何事かをぶつぶつとつぶやく魔人を尻目に、葵はニカッと笑った。 「あと、あの子の名前、リバイアさんじゃなくてリバイアちゃんに変わったから。覚えておきなさいよね」 「……。ククッ……クククククッ……」 「な、何よ。まだやる気?」 突然身を震わせて笑いだしたソウルジャグラーに、さしもの葵も及び腰になる。 「……まあいい、ここまで来たら潔く認めようではないか」 「は? 何を?」 「君は我が輩の上に立つ、強者である事を。そして約束通り、我が輩も君に従属しようではないか」 「どういう事よ。あたしが手懐(てなず)けたのはリバイアちゃんであって、アンタなんかじゃ……」 怪訝な表情を顔に浮かべる葵だったが、魔人はゆっくりと首を横に振った。 「あの猛る海皇は、いくら我が輩でも言う事を聞かせられはせんよ。呼ぶ事は可能でも、送還する事など初めから出来んのだ」 「つまり……?」 「もし君がソウルで従えるのに失敗していたら、この地上世界はあの魔獣に蹂躙(じゅうりん)されていたところだった」 髭を撫でつつ、朗らかな笑顔でそう言う。 『……なんてものを後先考えずに呼び出してくれたんだ、こいつは……』 冷や汗を浮かべてつぶやく。クレアが感じていたあの圧倒的な重圧は、魔獣が消えると同時にいつの間にか霧散していた。 「はっはっは、そう邪険にするものではないぞ、お嬢さん」 いや実際その通りだろう、とクレアが言おうとして。 『お前、私の事が見えて……!?』 「うむ、ちょうど先ほどから我が輩にも見え始めたぞ。そうか、この少女は君と話していたのか。時折独り言を言う癖があるのかと思っていたぞ」 髭を撫でながら納得したようにうなずく。 『……』 自身の身体を確認しても、相変わらず半透明なまま。実体化しているわけではないようだった。 近くを通りかかる通行人の眼前まで浮遊するが、誰もが何も気にせずに素通りしていく。 『どういう事だ……?』 やはり自身の姿が新たに見え、声も聞こえるようになったのは、この魔人だけであるらしかった。 それから背後を振り向くが、そこにはいつの間にか意気投合している二人が。 「精神力とは想いの強さ。君のそれが、海皇に打ち勝つほどにまで大きかったという事だろう。それほどまでの強い想いを持つ君に、我が輩も喜んで従おう」 「話が早いわね。……なんだ、アンタかなりいい奴じゃない。これからよろしくね!」 葵とソウルジャグラーが何やら固い握手を交わしている間、クレアはふと思った事をつぶやいた。 『精神力は想いの強さ、と言えば聞こえはいいが……要はそれって単に欲望の強さ、って事じゃないのか……?』 その言葉は、いつものように誰にも聞こえずに風に流れていった。 豪雨で制服がびしょ濡れになった葵は、その後すぐに寄宿舎に帰った。 そして建物の出入り口をくぐった途端、彼女は目を回して顔面からその場に倒れ込んだ。 『おい、葵っ!?』 とっさに振り向くが、彼女はその場ですやすやと寝息を立て始めていた。 『……』 ずっと気丈に振舞っていたものの、実のところは精神をかなり消耗していたらしい。 特にソウルとやらで、クレア自身でさえも何も出来なかったあの巨大生物を従えるという行為は、過剰に精神的疲労を蓄積させるものなのだろう。 「おい、お前さん何こんなところで何寝っ転がってるんだよ。風邪ひくぞ?」 近くを通りかかった女子生徒が熟睡している葵を揺り起こしにかかった時点で、クレアは自身と葵の人格を入れ替えた。 「……すまない、少し転んだだけだ。もう大丈夫だ、ありがとう」 「……?」 その咥えタバコの女子生徒が目をパチクリさせているのを気にせず、クレアはそのまま女子棟の葵の部屋へと向かった。 それから濡れそぼったスカートのポケットから部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。 雑誌やら食べかけの菓子類やらが散らかった室内に顔をしかめつつ、そのまま一直線に洗面所へ。 「……」 衣服を脱ぎながらふと自身の頭上を見上げても、霊体状態の葵の姿はどこにも見えない。 しかし意識を集中させると、はっきりと彼女の存在を感じた。 この霊体の状態で姿を引っ込める時は本人の意思、もしくは本当に疲れて眠っている時。 後者は普通の人間で例えるならば、夢も見ないほどの熟睡状態で休眠している時であるという事を、クレア自身も理解していた。 「全く……。本当に凄い奴だよ、お前は」 びしょ濡れになった制服と下着を脱衣かごに投げ入れ、そうつぶやいた。 室宮葵。幽霊との同居人にして、魔人の主。